Culture

おさんぽ案内人が行く福井散歩 市街にある二つの城跡に迫る【動画ライター】


2024年(令和6年)3月16日に、北陸新幹線の金沢〜敦賀間が開業し、注目を浴びている福井県。中心都市の福井は松平氏の城下町だが、市街にはその居城の跡と、もう一つの城跡がある。それぞれの背景と二つの城の関係から、福井の城下の歴史に迫ってみよう。

福井は「恐竜王国」を標榜、駅舎には恐竜のラッピング
駅前の恐竜広場には福井県で発見された恐竜のモニュメントが並ぶ

今の街をほぼ占めた城

福井の中心市街地のほとんどは、かつての福井城の縄張りに入っている。本丸を囲んで曲輪と堀が数重に配され、足羽川と荒川を外堀とするなど、最盛期には2km四方の縄張りを有していた、広大な平城だ。

現在はそれぞれの曲輪は市街化し、堀もほとんどが埋め立てられてしまった。現在は福井駅から徒歩5分ほどのところにある「福井城址」に、本丸と内堀のみが現存している。

内堀の幅は30mほどで石垣の高さは7m

御本城橋を渡り、瓦御門の跡を抜けると、本丸の内部へ。門跡のそばには福井城を築いた、結城(松平)秀康の像が立つ。秀康は徳川家康の次男で、福井藩主は明治期まで十七代に渡り松平家が務めていた。

結城(松平)秀康は関ヶ原の戦ののちに福井へ入府

天守台に栄華の名残が

本丸には当時、1000坪を超える広さの「本丸御殿」が建っていた。現在は福井県庁と県会議事堂、県警本部が立地しており、昔も今も福井の政務の中枢を担っている。

福井城址の本丸。一般の人も散策できる

本丸の建物は1669年(寛文9年)の大火で焼失しており、当時の建物は残っていない。本丸の北西隅には天守がそびえていたが、現在は天守台と礎石から往時を偲ぶことができる。

天守台に並んで小天守が建った控天守台もある

福井城の天守は四層五階の望楼型で、高さ28m、天守台も含めると37m。外壁は白漆喰総塗籠で入母屋破風(いりもやはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)などを配置し、最上階には外廻縁を設けた豪壮な造りだったという。

本丸の想像図。中央が本丸御殿、左上が天守

信長の城を越えた大城郭

福井城はもともと当地にあった、北ノ庄城を基に造られた城である。北ノ庄城の城主は織田信長の家臣だった、柴田勝家。信長が越前地方の一向一揆を平定した後に勝家が当地を拝領、1575年(天正3年)に築城された、戦国期の城郭である。

史跡公園の北の庄城址。資料館も隣接

福井駅に近い繁華街の一角には、柴田公園と「北の庄城址」が整備。日向門の礎石や堀の跡の一部、福井城に改築される以前の石垣など、発掘された遺構が見られる。当時にしては巨大な城郭と広大な縄張りを持ち、九層の望楼型天守は安土城を凌ぐ豪華さだったとも伝わる。

堀は幅25mほどで北へのびていたとも
北ノ庄城の想像図。城下町の整備も手掛けている

歴史に翻弄された女性達

柴田勝家の妻は信長の妹・お市の方で、敷地内には二人を祀る柴田神社が鎮座。そばにはお市の方の像と、勝家の前に嫁いでいた浅井長政との間に生まれた江、初、茶々の三人の娘・浅井三姉妹の像も立つ。

柴田神社。境内社に三姉妹神社がある

勝家とお市の方は夫婦仲が良かったことから、柴田神社は夫婦円満や良縁にご利益が。また母娘とも大変美しい方だったとも伝わり、願いを水に浮かべて祈願する「美(モテ)祈願」が人気という。

お市の方の像。そばには三姉妹の像と柴田勝家の像も
美(モテ)祈願では内面を磨くことも大切

勝家は信長の死後に、豊臣秀吉と対立。1583年(天正11年)年の賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城に火を放って自害した。築城から8年後のことで、お市の方は勝家と運命をともに。三姉妹は秀吉に保護され、さらなる波乱の人生を迎えることになる。
戦国の城郭は福井の街の基となり、さらに日本史の転換期の舞台もなった。二つの城跡を訪ね歩いて、それぞれの歴史的深みを感じてみてはいかがだろう。


CREDIT
Videographer :カミムラカズマ
Support :のだ ゆうた
Support :モゲ

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