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佐賀県の北部、東松浦半島の先端に位置する呼子は、玄界灘に面した港町。細長い呼子湾に沿って広がる集落には、かつての漁師町の面影が色濃く残っている。朝市が立つことで知られ、活造りが人気のイカが名物として名高いが、かつて捕鯨の拠点として栄えたことは、意外に知られていない。
呼子は、鎌倉時代に松浦水軍の本拠地となったのが始まりで、中世に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基拠点とした名護屋城を築城した際には、軍事や生活資材を支える重要な補給港として機能。江戸時代に入り、捕鯨集団「中尾鯨組」が本拠を置いたことで、町の整備や社寺の再興が進み、現在の呼子の街並みの基盤が築かれることとなった。
現在、観光の目玉となっている「呼子朝市」も、その起源は江戸時代にまでさかのぼる。当時は鯨肉をはじめ地元で獲れた魚介類と、周辺から集まる農産物を交換する、物々交換の場。鯨組の隆盛が、結果的に庶民の暮らしにも活気を与え、今日まで続く市場の一助となったともいえる。
「鯨一頭捕れば七浦賑わう」という言葉が示す通り、捕鯨がもたらす経済効果は絶大であった。さらに中尾家の富は「中尾様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われるほどで、一介の商家の枠を超えた、巨万の財力を保持していた。その拠点となったのが、朝市通りの中ほどに建つ「鯨組主中尾家屋敷」である。
18世紀中期に建てられた主屋は、切妻造平入の二階建で、九州北部に現存する町家としては最古級とも。建物内の座敷は、鯨組の幹部会議や漁の出陣式といった重要な場として使用。唐津藩主や対馬藩主宗氏の宿泊所としての役割も担っており、随所に施された贅を尽くした意匠から、格式の高さが窺える。往時の敷地は800坪と広大で、現在呼子朝市が行われる地区にまで及んでいたという。
当時の捕鯨の主な獲物はセミクジラで、漁法は網へ鯨を追い込み銛で仕留める「網掛突取法」。島と島の間の海峡に張った網へ、勢子船が船べりを叩いて鯨を誘導し、弱ったところを刃刺しが仕留める。1840年(天保11年)の図説『小川嶋鯨鯢合戦』には、人間と巨獣が命懸けで対峙する様子が、まさに合戦のような迫力で描かれている。
捕獲された鯨は余すところなく利用され、肉や内臓、皮脂は食料となり、生のほか塩蔵に加工されて遠方まで供給。食用以外の部位からは灯火用の鯨油が採られ、骨は粉砕して肥料に、さらに骨やヒゲは工芸品の材料にも活用。その恵みを無駄にしない精神は、鯨に対する人々の感謝の現れでもあった。
現在の呼子は、朝市やイカの活造りを目的に、多くの観光客が訪れる食の町となった。しかし、その賑わいの根底には、江戸時代から続く捕鯨によって、地域が育まれた歴史がある。鯨組主中尾家屋敷の重厚な佇まいや、朝市の喧騒に耳を傾ければ、かつて玄界灘の荒波に挑んだ鯨組の男たちの息遣いが、今も聞こえてくるようである。
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