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おさんぽ案内人が行く愛知県・岡崎散歩 若き家康が躍動した大河ドラマの舞台【動画ライター】

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愛知県が生んだ三傑の中で、天下統一を果たした徳川家康。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で、若き頃の姿が放映されており、主要な舞台の一つとして岡崎がとり上げられている。

乙川は別名、菅生川。岡崎城の天然の堀でもあった

徳川家康は1542年(天文11年)に、三河国松平家八代当主の嫡男として岡崎に生まれ、織田家と今川家に人質となった時期をはさみ、三河国を統一するまで岡崎を拠点とした。乙川(おとがわ)沿いに広がる市街には、家康が生まれた岡崎城をはじめとして、ゆかりの史跡が数多く点在している。

徳川四天王の活躍が一望できる園地

乙川の河岸からのびる緑道は、その名も「天下の道」との名がつき、家康が出陣した戦の名場面が、家臣の像とともに再現されている。

徳川四天王の筆頭の本田忠勝。槍の名手だった

三方ヶ原の戦いの退き陣で、武田勢から家康を守った本多忠勝。その際の浜松城の防御で、陣太鼓を打ってあえて開門する「空城の計」を策した酒井忠次。

小牧・長久手の戦で、豊臣軍を非難する檄文をかざす榊原康政。その戦で武功を立て「井伊の赤鬼」と恐れられた井伊直政。徳川四天王が活躍する名場面像が、戦国史好きにはたまらない。

菅生神社は岡崎最古の神社で、徳川・松平両家とのゆかりも深い。1566年末(永禄9年)に、家康が天下泰平を目指して厄除祈願を行ったとされ、この年に松平から徳川への改姓も成している。境内社の開運稲荷大明神は、家康の祖父の松平清康が岡崎城に入城した際、まつった社でもある。

生まれた城ながら居城は短い岡崎城

岡崎城は1531年(享禄4年)に、松平清康が本拠として整備した城郭が始まり。家康はここで生まれ、産湯をとったと伝わる井戸も残っている。

岡崎城天守。城郭は日本で4番目の規模といわれた

家康は幼少期〜少年期は人質に出され駿河で過ごしたため、本格的な居城は桶狭間の合戦後の19歳から。三河国統一後の1570年(元亀元年)には拠点を浜松城に移しているので、岡崎城を居城とした期間は意外に短い。

現在の天守は当時の姿をもとに、昭和34年に復興されたもので、内部は郷土資料館と展望台になっている。史跡はその周辺にあり、天守の前には「人生は重荷を負い遠き道を行く」の東照公遺訓と「政権が他家に移っても民が幸せならよい」との意の家康公遺言の碑が立つ。

隣接する龍城神社は家康と本多忠勝を祀る社で、家康が生誕した朝、城郭の上に金龍が現れた伝説が社名になっている。

像をたどれば家康の生涯が分かる

そして岡崎城で注目したいのは、城内に配された様々な家康像。生涯における重要な場面を表しており、たどると家康の生き様を身近に感じられる。

座ればご利益があるともいわれる出世のベンチ。岡崎は石材加工が盛んな街でもある

「出世のベンチ」には、人質となり苦労した幼少期の竹千代像と、天下を治めふくよかな家康像が並び、合わせて眺めると立身出世の象徴のよう。

二の丸には生誕450年祭を記念した、水辺に立つ若き家康の騎馬像と、花壇に立つ壮年期の威厳ある姿の像が対峙。そして三方ヶ原の戦いで敗れた家康の姿を描いた、俗に「顰(しかみ)像」と呼ばれる絵の像も。

この戦では、駿河攻めから上洛を目指す武田信玄に、家康は誘い出されて惨敗する。這々の体で浜松城に逃げ帰った家康が、敗戦を肝に銘じ慢心を戒めるべく、憔悴した姿を自ら書かせたと伝わる異色の肖像画だ。

「顰(しかみ)像」。原画は「徳川家康三方ケ原戦役画像」

城跡や寺社、史跡や像など、随所に様々な形で徳川家康の足跡が残る岡崎。散策の足を進めるごとに、その御威光が感じられるような街である。

岡崎てくてくさんぽ

おさんぽTV 朝日堂チャンネル

CREDIT
Videographer / Writer :カミムラカズマ
Support :のだ ゆうた

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