Culture

おさんぽ案内人が行く群馬県・富岡散歩 工女たちが活躍した世界遺産の製糸場


「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、近代の絹産業において絹を世界中に広め、生活や文化を豊かにした点が評価され、2014年(平成26年)に登録された世界遺産。富岡製糸場はその中心的な構成遺産で、生糸の大量生産を実現した主な設備が、ほぼ創業当時の姿で現存している。

城町通りに面した富岡製糸場の正門
5.5haの敷地に置繭所や繰糸所、宿舎などが並ぶ

近代日本の国力を支えたフランス式製糸場


富岡製糸場の創業は、1872年(明治5年)。海外の技術を導入して工業の近代化を図る、殖産興業の一環で設立された。明治政府による官営の器械製糸場で、海外貿易で外貨を獲得して国力を上げるため、主たる輸出品だった生糸の品質改善と生産力の向上を目的としていた。

富岡製糸場の設立に際しては、フランス人技師のポール・ブリュナを招聘して首長とし、フランスの最新の機械と製糸技術を導入。指導者もフランスから雇って、全国から募集した工女に伝習させるなど、国内への技術の伝承と普及も目的としたのが特徴である。

大規模な工場の建屋に往時の器械が並ぶ


見どころの一つは東西の置繭所(おきまゆじょ)で、長さ104m、高さ12mの木骨煉瓦造で瓦葺の和洋折衷建築。2階はおよそ32tの繭(まゆ)を保管でき、扉から搬出した繭をベランダを経て運んでいた。西置繭所の内部には、搬入用のエレベーターや、貯蔵室に繭袋が積載された様子が見られる。

東西の置繭所は風通しをよくするため離れている
貯蔵室は湿度を避けるため鉄板で囲まれている

もう一つの見どころが、繭から糸を取る作業が行われていた繰糸所(そうしじょ)。トラス式構造で天井が高く、柱がない広い空間が特徴。創設時にはフランスから導入した、300釜の繰糸器が設置され、当時使われていた繰糸器のレプリカが一角に展示されている。

繰糸所は長さ140.4m、幅12.3mの巨大な工場
創業時の繰糸器のレプリカ

富岡製糸場は、1876年(明治9年)に外国人指導者が帰国してからは日本人による操業となり、1893年(明治26年)には払下で三井家の経営に。1939年(昭和14年)には片倉製糸紡績と合併し、以後は1987年(昭和62年)まで稼働。繰糸所内には1966年(昭和41年)以降に導入された、自動繰糸機が保存されている。

上部のコンベアで煮繭場でほぐされた繭が運ばれる
複数の繭の糸をまとめて巻き上げて生糸にする

日本の製糸産業を築いた「富岡乙女」たち


富岡製糸場での製糸業を支えたのは「工女」と呼ばれる女性の労働者によるところが大きい。士族や有力者の子女が多く、「富岡乙女」とも呼ばれその数は延べ3500人ほど。習得した技術を地元に伝播する役割も担い、全国に器械製糸の技術を伝え、近代日本の発展に貢献した。

工場の機械や技術と同様に、工女の労働環境もフランス式を導入。給与は等級制の能力給で、他の仕事より高い水準。労働時間は1日平均7時間40分で、日曜は休み。住居は工場の敷地内に「榛名寮」「妙義寮」「浅間寮」の寄宿舎が設けられ、食事も三食提供されていた。

妙義寮と浅間寮は昭和15年築
ブリュナが住んだ首長館は後に工女の教育の場に

富岡製糸場の周辺には、工女をはじめとする労働者で賑わった、繁華街の面影が残っている。銀座通りには1876年(明治9年)に、芝居小屋の中村座が設立され、大正期には界隈に5軒の映画館が集中。甘味屋や寿司屋、パチンコ屋なども並び、工女たちが休日を過ごす憩いの場所であった。

銀座通りの中心部。あたりに映画館が集まっていた
富士屋は工女たちに人気があった甘味処

富岡製糸場の労働環境は恵まれていたものの、勤続疲労や伝染病、家族と離れた暮らしや対人関係による心労などにより、体を壊してしまう工女も。その影響で、操業から明治34年までに60人あまりが亡くなっている。浄土宗寺院の龍光寺には工女の墓があり、亡くなった工女54人が眠っている。

龍光寺の境内には樹齢400年の大銀杏がそびえる
工女を弔った句が刻まれた碑も立っている

近代化の礎となった製糸場と、そこで働いていた工女たち。富岡の町を歩き製糸場を見学すれば、明治期から戦前にかけての日本の躍動が、伝わってくるはずだ。

より詳しい動画はこちらから視聴できます。

CREDIT
Videographer :カミムラカズマ
Support :のだ ゆうた
Support :モゲ

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