オホーツク海沿岸のほぼ中央に位置する、紋別(もんべつ)。冬に到来する流氷を観覧する、砕氷観光船が運航することで知られるが、交易の拠点として開けた港町としても、古い歴史を持つ。市街をめぐれば街の隆盛の名残が、各所にとどめられている。
紋別バスターミナルに近い「オホーツク氷紋の駅」は、かつての紋別駅の構内に建つ商業施設。1989年(平成元年)まで、宗谷本線の名寄(なよろ)駅と石北本線の遠軽(えんがる)駅を結んだ、名寄本線が通っていて、紋別は最も規模が大きかった駅。札幌を結ぶ急行「紋別」や、網走を結ぶ急行「天都(てんと)」が運行するなど、鉄道輸送の拠点でもあった。
紋別の街の概要を学ぶなら、紋別を総合的に紹介した郷土博物館の「紋別市立博物館」へ。展示は主に三つのテーマに分かれ、漁業のコーナーではニシン番屋が再現。漁期に各地から出稼ぎに来る漁師のための宿泊施設で、漁師と親方が寝起きをともにしながら、ニシン漁に従事していた。
地下資源を紹介するコーナーでは、鴻之舞(こうのまい)鉱山に関する展示が充実。紋別市街から25kmほど南西側の山中にあった、住友金属鉱山が経営していた鉱山で、1917年(大正6年)から1973年(昭和48年)まで操業。金の埋蔵量は東洋一と称され、最盛期には年間で3トン近くの金が産出されたという。
紋別の街は、物流の拠点だった紋別港を起点にして、開けていった歴史がある。港の周辺は、明治期の街の経済の中心。当時は海運業者の倉庫をはじめ商家や問屋が集まり、現在もあたりには古い建造物が目立つ。
1906年(明治39年)築の「旧田中呉服店」は、石倉造の町家建築で紋別で唯一うだつを備えた建物。向かいには1918年(大正7年)年築の「旧遠藤醸造店」の、数寄屋(すきや)造の建物が。紋別港のそばには、1903年(明治36年)築の「岩倉土蔵」の、漆喰塗の土蔵が残っている。
紋別港は波風の影響が少ない、古くからの天然の良港。江戸期に松前藩の漁場となり、明治期に船の出入りが増えたため、1922年(大正11年)に港湾の整備が着手された。漁業施設がある第一船溜は1931年(昭和6年)に竣工した、紋別港の発祥の地でもある。
第一船溜には紋別漁業協同組合の地方卸売市場が隣接していて、朝5時頃から水揚げが行われた後、8時から競りが実施される。主に取引される魚種はサケ、マス、ホタテ、カニのほか、スケソウダラ、ニシン、ホッケ、カレイ、イカ、タコなど。魚種別の漁獲量はホタテなど貝類と、タラ類が上位を占めている。
岸壁には、底建網漁やカニ籠漁など、紋別の沿岸で操業する漁船が停泊している。底建網は箱状の網を海底へ下ろし、広げた網口へと魚を呼び込む漁法で、カレイ、イカ、ホッケなどが主要漁獲になっている。
紋別の総水揚量の5割近くを占めるホタテは、鉄製の爪がついた網を海底に沈めて船で曳く、貝桁網で漁獲。ほか水深30mほどに長さ約250~300mの大型の網を仕掛ける、秋鮭の定置網漁が有名。漁期は9月から11月にかけてで、 10月に水揚げの最盛期を迎える。
流氷が訪れて海が凍る冬の間は、操業は中止に。漁は流氷が去るのに合わせて3月末ごろに再開され、流氷に閉ざされた富栄養な海で育った、毛ガニやホタテが旬を迎える。漁船は冬の間は船揚場に上架され、春の「海明け」を待っている。
港の近くに建つ、歴史を伝える重厚な建物。季節ごとの水揚げで賑わう漁業施設。紋別の街を歩けば、港から始まり発展してきた、街の成り立ちを実感でき、流氷観光にも深みが増すはずだ。
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