Culture

おさんぽ案内人が行く川崎散歩 労働者が集ったエネルギッシュな街をめぐる


神奈川県の川崎は、多摩川沿いや臨海地区に工場地帯を有する、古くからの労働者の街。現在も多くの工場が稼働しているほか、再開発された工場の跡地には、往時の名残も見られる。

彼らの憩いの場となった娯楽施設も合わせて、昔と今の川崎の風景を訪ね歩いてみよう。

昭和歌謡の殿堂だった名残を感じて


まずは京急川崎駅から、大師線でひと駅の港町駅へ。かつての日本コロムビア川崎工場の最寄り駅で、1932年(昭和7年)の開業当時の駅名は「コロムビア前」。富士瓦斯紡績の工場も近くに立地していた、工場街の最寄り駅だ。

港町駅。付近には園地が広がっている
音符のネオンは東海道線の車窓からも眺められた

日本コロムビア川崎工場は、1909年(明治42年)に操業を開始した、川崎に進出した工場の草分け的存在。同年に日本初のレコード、翌年に蓄音機が製造され、以来100年近くレコードとCDを製作し、昭和歌謡を支え続けてきた。

駅舎内には展示スペースが設けられ、工場の全景写真をはじめ、SPレコードからCDに至る生産品の歴史、当社や川崎との縁が深い楽曲も紹介。

工場は9番地だが語呂から歌詞は13番地にしたとか
レコード制作は昭和期がピークだった

美空ひばりの『港町十三番地』の、ゆかりの街ともいわれ、電車が発着するたびに懐かしのメロディが流れる。

港町駅のホームには楽曲の楽譜も描かれている

創始者の名が町名にもなった食品工場



日本コロムビア川崎工場は2008年(平成20年)に撤退し、工場跡は再開発により、29階建のタワーマンションが3棟並んでいる。

すぐそばには多摩川の土手が続いていて、たどった先には1928年(昭和3年)築の、川崎河港水門が。上部に配された川崎の市章と、特産品だった果物の装飾が目を引く。

工場跡に建つマンションのリヴァリエは高さ100mほど
多摩川の河岸からは六郷大橋から河口方面を見渡せる

川崎では大正期に工業用地を拡充するため、多摩川と東京湾を結んで川崎区を横断する、幅40mの運河の建設が計画されていた。不況の影響で頓挫したが、この計画で川崎河港が整備され、港町の町名の由来にもなっている。

水門の装飾の梨、ブドウ、桃などは水上交通で流通した
味の素ほかメルシャンなども立地した工場街

水門の先の鈴木町には、1914年(大正3年)に操業した、味の素川崎工場が広がっている。味の素で最古かつ最大規模の工場で、敷地面積はおよそ東京ドーム八つ分。年間で約1700種の製品を製造している、主力工場である。

ちなみに鈴木町の町名は、味の素の創設者である鈴木三郎助の名が由来。町域のほとんどを味の素川崎工場が占めており、京急大師線の鈴木町駅も設置。工場への最寄り駅で、駅名は1929年(昭和4年)の開業時は「味の素前」だった。

競馬場から工場となり再び競馬場に



京急大師線の港町駅が最寄りだったもう一つの工場・富士瓦斯紡績は、1915年(大正4年)に誘致された紡績化学工場。現在の富士紡で、当時は2500人の従業員を擁し、東洋一の工場とも称されていた。

工場は1906年(明治39年)に板垣退助が設立した、京浜競馬倶楽部の競馬場跡地に造られ、戦前に東芝に譲渡されたが、太平洋戦争の戦災で破壊。跡地には 1949年(昭和24年)に、競馬場が再建された。

川崎競馬場。戦後期の売上は市の戦災復興にも貢献した

これが現在の川崎競馬場で、南関東4競馬場に数えられる、関東の地方競馬場の一つである。全国で最も敷地面積が狭い競馬場で、直線距離が300mで長い分、コーナーが急なのが特徴。

外枠は距離が増しカーブで振られるので内枠有利とも
イスやブースや芝生など様々なタイプの客席がある

向正面に据えられたドリームビジョンは、幅72m・高さ16m。2009年(平成21年)に設置された当時は、世界最大面積のスクリーンとして、ギネス記録にも認定されていた。

馬場の内側は芝生テラスや遊具があり家族連れで楽しめる
3画面に分割でき迫力ある映像が見られる

昭和の社会人野球とプロ野球の聖地



川崎は京浜工業地帯に多くの企業が立地していたことから、社会人野球が盛んだった。その聖地が、かつて富士見公園内にあった川崎球場。東芝、日本コロムビア、味の素や日本鋼管、いすゞ自動車などの出資により、社会人野球用の球場として1951年(昭和26年)に開場した。

両翼は公称90mだったが、実際はやや短く、中堅も120mはなかったため、ホームランが出やすかった、ピッチャー泣かせの球場だった。

富士通スタジアム川崎の管理事務所の展示コーナー
ユニフォームやポスターなどプロ野球関連の資料が豊富

1955年(昭和30年)から、プロ野球の大洋ホエールズの本拠地となり、1977年(昭和52年)に横浜に移転した後、1991年(平成3年)まではロッテオリオンズが本拠地としていた。

川崎球場は老朽化のため、1999年(平成11年)に閉場し、球場があった場所には2007年(平成19年)に、アメリカンフットボールやサッカー用の球技場「富士通スタジアム川崎」がオープン。主にアメリカンフットボールプロリーグ、Xリーグの試合会場に使用されている。

富士通スタジアム川崎は人工芝の球技場
管理事務所にはXリーグのPRコーナーも併設

付近には川崎球場時代の名残が見られ、スタジアムの東側のゴール裏には、川崎球場の外野フェンスとスタンドが現存。

高さ39mの照明塔は解体されたが、遺構として保存される計画も。プロ野球のナイトゲームの際に、三種のライトを組み合わせて太陽光を再現した「カクテル光線」の発祥となった照明だ。

今も残っている川崎球場の数少ない遺構
カクテル光線は地元企業の東芝の技術により開発

多くの労働者が行き交った、ものづくりの街。往時のエネルギッシュな空気を感じつつ、川崎の街を歩いてみては、いかがだろう。

より詳しい動画はこちらから視聴できます。

CREDIT
Videographer :カミムラカズマ
Support :のだ ゆうた
Support :モゲ

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