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日本一の湧出量と多様な効能から、古くから湯治客でにぎわってきた別府温泉。大規模な温泉旅館が建ち並び繁華街が広がる市街には、大小の通りや路地が錯綜していて、共同浴場をはしごしながらの温泉街散歩が魅力である。路地や通りを歩けば、地区ごとの性格や盛衰を感じられるのも興味深いところだ。
同じ通りに存在する現在と過去の繁華街
通称「ソルパセオ銀座」と呼ばれる別府銀座商店街は、戦後から街の中心的商店街としてにぎわった、別府温泉のメインストリート。昭和30年にアーケードが設けられた300mの通りは、沿道の店の半数ほどを飲食店が占めており、老舗と現代的な店がバランスよく軒を連ねている。
別府銀座商店街の南側の「楠銀天街」は、明治〜昭和期の別府温泉屈指の繁華街。当時の別府温泉の玄関口は、大阪航路の汽船が発着する楠港で、楠銀天街はこの港に近接する商店街として活況を呈していた。
1967年(昭和42年)に主要港が国際観光港へと移転、以降は寂れてしまったが、沿道に点在する侘びた構えの商店や旧書体の屋号看板などに、往時の繁盛ぶりが伺える。
別府銀座商店街に並行する「やよい天狗通り」は、通りの中ほどに鎮座する火伏せの守護・大天狗の神輿が名の所以の商店街。
アーケードを抜けた先の楠町には、北部旅館街と南寄りの浜脇の二つの大規模な遊廓の間に位置していた、楠町遊廓があった一角。大きな妓楼(ぎろう)が数軒構えていたほか、昭和初期には「貸席」と呼ばれる貸座敷もあり、界隈にはその名残を留める建物が現存している。
また沿道にある古風な理髪店の2階は、かつてのゼンリンの本社があった場所。住宅地図で知られる出版社で、1948年(昭和23年)に別府で創業した観光文化宣伝社が前身だ。観光客向けに刊行した名所旧跡を紹介する小冊子がヒットし、善隣出版社と社名変更して刊行した「観光別府」の付録が、住宅地図展開のきっかけになったそうである。
文化財の共同浴場に至る産業遺産のアーケード
この二つの商店街に交差する通りの一つ、梅園通りは、波止場神社に祀られる菅原道真公にちなむ梅が名の所以。石畳の道の沿道には地元御用達の老舗酒場や新しい話題の料理店など、個性的な飲食店が密集している。
山側の終点の西方寺は、門前に門司と大分を結んだ小倉街道が通っており、温泉客の宿泊や休憩のための「御旅所」にも使われていた。
浜側の終点の波止場神社は、1873年(明治6年)に整備された楠港の築港工事や、航路の安全祈願で勧請された社。また別府温泉はプロ野球西鉄ライオンズの名投手・稲尾和久氏の生誕地でもあり、生家がこの神社のそばで境内で野球をしていた逸話も。
強靭な足腰は漁師だった父の手伝いで、揺れる伝馬船を漕いでいたおかげともいわれ、絵馬掛け台には伝馬船を漕ぐ親子の肖像画が掲示されている。別名「稲尾神社」とも称され、氏の功績にあやかり必勝祈願の願掛けも多い。
二つの商店街に交差するもう一つの通り・流川通りは、楠港から市街を東西に貫いた当時のメインストリート。沿道は不夜城とも称され、観光客や温泉客で昼夜ともににぎわった繁華街だった。
楠港の桟橋を整備した1921年(大正10年)に設置されたのが、日本最古の木造アーケード商店街といわれる竹瓦小路。流川通りと共同浴場の竹瓦温泉を雨に濡れずに往来できるよう、全蓋式で屋根はガラス張りという、当時にしては先進的な仕様だった。
沿道の建物は住居兼店舗の2階建てで、別府の工芸品やみやげ物屋が入りにぎわったが、楠港の移転後は楠銀天街と同様、流川通りとともに寂れてしまった。現在は和菓子店、スナック、ワインバーなどが営業しており、アーケードはその歴史的経緯から、近代化産業遺産にも認定されている。
楠港が玄関口だった往時と、別府駅が入口となる現在とを比較すると、地区ごとの位置づけ、そして街の重心にかなりの変遷が見られる。やや前時代的な温泉街がら、年輪を重ねた奥深さが感じられる別府。その趣きは通りや路地に刻まれた、時代ごとの記憶が作り出しているのではなかろうか。
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